会社の倒産と同時に彼氏にもフラれた理央は、やけ酒の勢いでその場に居合わせたイケメン・湊士と婚姻届けを出してしまう。伝統ある能楽の家柄に縛られたくないという彼に、1年の契約で妻としてやとわれることに。一方、理央と過ごすうち本当の夫婦になりたいと考えた湊士は、激しい熱情と蕩けるような甘さで理央を身体ごと翻弄し、繰り返し愛を囁くが――。
夜風が足元を吹き抜ける中、往来の灯りに照らされながら彼が言った。
「確かに最初の約束はあるが、俺は理央を女として意識してる。だから試してみないか」
「た、試すって、何を?」
「セックス」
あからさまな単語を出され、理央の頭にかあっと血が上る。
これ以上ないほどに混乱しながら、くるりと踵を返してぎこちなく告げた。
「そ、湊士さん、やっぱり酔ってるよね? もう帰って寝たほうがいいよ。さーて、タクシーはどこかなー」
「まあ、待て」
むんずと肩をつかまれて、理央は「ひっ」と声を漏らす。するとそれを聞いた湊士が、呆れた顔で言った。
「そんなにビビるな、無理やりしようってんじゃないんだから。偽装結婚は続ける前提で、理央に渡す報酬にも変わりはない。ただ、新たな可能性の模索をしてもいいんじゃないかと思うんだ」
「何、新たな可能性って」
「俺と理央が、恋愛できるかどうか。せっかく縁あって入籍したんだから、前向きな考えだろ」
ニヤリと笑う彼は気負いも何もなく、至って飄々としている。
理央は思わず顔をしかめ、肩をつかんでいる手を振り解きながらにべもなく答えた。
「やだよ、湊士さんと恋愛なんて。絶対疲れるもん」
「何に疲れるんだ?」
「だって間違いなく、女性関係が派手でしょ。そんなのに引っかかってやきもきするなんて、嫌だし。だから却下」
これだけの容姿で、蠱惑的な雰囲気を持つ男だ。
きっとあちこちの女と浮名を流すのが日常茶飯事で、色事にかけては百戦錬磨に違いない。理央はそう考えていたものの、湊士はあっさり意外なことを言った。
「残念ながら、そんな暇はない。最後に女と別れたのは、三年前だったかな」
「えっ」
「下手に手を出すと、周囲がうるさいんだ。俺も仕事に集中したい時期だったし」
理央は驚き、彼をまじまじと見つめてつぶやいた。
「でも、わたしに初めて声をかけてきたときみたいに、飲んだついでに親しくなるとかあるんじゃない?」
「東京では一人で飲みに行くこと自体が少なくて、あの日はたまたまだ。地方では支援者とのつきあいで手一杯だから、女を口説けるような状況じゃない。まあ、それでもその気ある奴はそうするんだろうけど、俺の場合はないな」
にわかには信じられず、理央は疑惑の眼差しを湊士に向ける。それをきれいに受け流し、彼がチラリと笑って問いかけてきた。
「――で、どうする?」
「それは……」
端整な顔でそんなことを言われると、理央の理性がグラグラと揺れる。
酔った勢いで入籍した相手だが、湊士の印象は決して悪くはない。これまで同じベッドで眠っていて、手を出す機会はたくさんあったにもかかわらず、彼はこちらの気持ちを無視した行動に及ばなかった。今もこうして伺いを立てているのだから、誠実だといえるだろう。
(でも……)
もし身体の関係を持って、うっかり湊士を好きになってしまったら、別れるときにつらくなるのではないか。そんな迷いがこみ上げ、理央はグルグルと考える。
(ん? 要するに〝お試し〟で悪くなければ、離婚せずにそのまま結婚生活を続けるってこと? でももしわたしのほうが湊士さんを好きになって、でも彼のほうはそうでもなくて「予定どおりに別れよう」って言われたら、それが一番地獄じゃない?)
そうした事態になるリスクを考えれば、最初から〝偽装〟に徹するのが無難ではないのか。
そんな消極的な方向に気持ちが傾きかけた瞬間、彼がふいに言う。
「――はい、時間切れ」
「えっ」
「とりあえず、キスさせろ」
そう言ってグイッと腕を引かれ、身体が勢いよく前につんのめる。
湊士の大きな手で顎をつかまれ、理央は彼に口づけられていた。
「ん……っ」
口腔に押し入ってきた舌はわずかにビールの香りがして、ぬるりとした感触に体温が上がった。
ゆるゆると絡ませる動きは激しくないのに官能を煽り、理央の身体がじわりと熱を持つ。往来でこんなことをされているのが恥ずかしく、貪られながら必死に湊士の二の腕をつかんだ。
唇を離されたタイミングで、理央は息を乱しながら言った。
「こんなところで、馬鹿じゃないの? もしファンの人とかに見られたら……っ」
「今日はここまでそういう気配は一切なかったから、大丈夫だろ」
濡れた唇をペロリと舐めるしぐさが壮絶に色っぽく、間近でそれを目の当たりにした理央は恥ずかしさをおぼえる。彼が機嫌のよさそうな顔で言った。
「で、その気になったか?」
「……っ」
湊士のキスは心地よく、一気に性感を高められたのは否定できなかった。
簡単にその気にさせられるのは嫌なのに、拒めない。しかし素直に頷くのはプライドが許さず、彼から視線をそらしつつ精一杯何気ない口調で答えた。
「まあ、……一度くらいは試してもいい、かも」
「…………」
こちらをじっと見つめた湊士が小さく噴き出すのがわかり、みるみる羞恥が募る。理央は急いで前言を撤回した。
「ごめん、やっぱりやめる。そうやって笑われるの、気分悪いし」
「いや、悪かった。理央の言い方が可愛くて、つい」
まるで機嫌を取るように大きな手で頬を撫でられ、理央はぐっと言葉に詰まる。
彼に一気に距離を詰められて、どんな顔をしていいかわからなかった。ジャケットの胸ポケットからスマートフォンを取り出した湊士が、「じゃあ、ちょっと待ってて」と言って何かを検索し始める。
手持ち無沙汰になった理央は目を伏せて地面を見つめ、落ち着かない気持ちを持て余した。躊躇いは強くあるのに彼を拒絶できないのは、自分の中に湊士への好意が明確にあるからだろうか。
(どうしよう、やっぱりやめたほうがいいんじゃないかな。わたしたちは、〝偽装〟の関係なのに)
ビジネスではない繋がりを持ってしまったら、いずれ後悔するかもしれない。
そんなことを考えているうちに、彼が顔を上げる。そしてこちらを見下ろして言った。
「急だから星付きのホテルっていうわけにはいかないけど、それなりのシティホテルが取れた。移動しよう」
第五章
理央の手をつかんだ湊士が往来を歩き出し、やがて手を挙げてタクシーを停める。
後部座席に乗り込んだ彼が丸の内にあるホテルの名前を告げ、車が緩やかに走り始めた。理央は緊張しながら、隣に座る湊士に問いかける。
「ねえ、お屋敷には帰らないの? 丸の内って……」
「最初なんだから、一応形にはこだわりたいだろ」
そういうものだろうか。
十分ほど走って到着したのは、都会的な外観の高層ビルだった。上層階がホテルフロアになっており、二十七階にあるフロントでチェックインする。
スタッフに案内されたのは、最上階にある一室だった。開放感のある眺めが特徴で、大きな二面窓からは都心のきらびやかな夜景が見える。クールでモダンな内装はセンスがよく、ゆったりとした広さは三十五平米もあるらしい。
理央が感心して眺めていると、湊士が脱いだジャケットを椅子に掛けながら言う。
「先にシャワー使うか?」
「あ、ありがとう」
ぎこちなくバスルームに入りつつ、理央はじわじわと募る緊張感を押し殺す。
もうここまで来たら、逃げられない。そもそもキスをされたときにその気になってしまったのは否めず、優柔不断な自分を心の中で叱咤する。
(自分で了承したんだから、いつまでも及び腰でいるのはやめよう。湊士さんは勢いで誘ってきてるんじゃなくて、わたしの内面に惹かれたって言ってくれてるんだし)
スポンジで身体を洗い、バスローブを着込む。部屋に戻ると湊士が一人掛け椅子から立ち上がり、手に持っていたミネラルウォーターのボトルをこちらに差し出して言った。
「飲むか?」
「あっ、うん」
「ちょっと待ってて」
頭をポンと叩いて去っていくしぐさは甘く、理央は面映ゆさを噛みしめる。
渡された水を飲みながら、窓辺に立ってきらめく夜景を眺めた。生まれたときから東京に住んでいるのに、こうして夜景を眺める機会はほとんどなく、思わず見入ってしまう。
やがて湊士が戻ってきて、理央は窓ガラスに映るその姿を見てドキリとした。彼がこちらに歩み寄ってくるのを見ながら振り向き、意を決して告げる。
「じゃあ、早速しようか」
「しようか、って……」
湊士が唖然としたように眉を上げ、盛大に噴き出す。
「色気がないな。スポーツじゃあるまいし、もっとムードを出そうとか思わないのか」
「だって……」
臆していると思われたくなくて、あえてそう言ったのだと説明すると、彼は楽しそうな顔で言う。
「理央はいちいち行動が予想外だよな。普通お嬢さま育ちなら、もっと奥ゆかしかったりするものだろ」
「お嬢さまって言っても、〝元〟だから」
「まあ、そういうところが可愛いんだけど」
腰を引き寄せられ、上から覆い被さるように唇を塞がれる。
湊士の舌が絡んできて、理央はその感触に陶然とした。こうして抱き寄せられると、彼の身体の大きさや自分より高い身長にドキドキする。
「ぅ……っ、ん……っ……」
ざらつく表面を擦り合わせ、軽く吸われる。
思いきって自分から絡ませてみると、より強く吸われ、次第にキスが濃厚になった。唇を離されたかと思うと角度を変えて再び塞がれて、いつまでもキスが終わらない。
やがてどれくらいの時間が経ったのか、ようやく解放されたときには呼吸が乱れていた。力が抜けた理央の身体を抱き留め、こめかみの辺りに口づけた湊士が、耳元でささやく。
「ベッドに行くか?」
「……うん」
手を引いて誘われ、クイーンサイズのベッドにゆっくり押し倒される。
ベッドサイドのランプの淡い光に浮かび上がる彼は、少し緩んだバスローブの合わせから覗く首筋と胸元に滴るような色気があった。
目元にわずかに乱れ掛かる黒髪や怜悧に整った顔に胸が高鳴り、理央は自分から湊士の顔を引き寄せて口づける。するとキスに応えながら彼の手が胸元に触れ、バスローブの上からゆっくりふくらみを揉みしだいてきた。腰紐を解かれ、あらわになった胸の谷間に、湊士が唇を這わせる。