食べるのも料理するのも大好きな麗美は、ひょんなことから自分が勤める会社の社長・慎一郎のお弁当作りを頼まれる。食をきっかけに二人の距離は急接近するものの、麗美はある事情から住んでいる家を追い出されてしまう。「もうお弁当を作れない」と慎一郎に告げると、なんと同居を提案され、気が付けば朝から晩まで愛される甘い生活が始まって……?
「やあ、来たね。待ってたよ」
大股で近づいてくる慎一郎は、顔に優しい微笑みを浮かべている。
ホッと気持ちが和むと同時に、持っているランチバッグごと腕の中に、ゆったりと抱き込まれた。
「会いたかった。麗美が恋しかったし、麗美の料理が食べたくて仕方なかったよ」
「しゃ……社長――」
家の事で頭を悩ませていたせいで、週末は慎一郎との関係については考える暇がなかった。
そのせいで、すっかり油断していた麗美は、そのまま彼の腕の中で棒立ちになる。
「なかなか連絡できなくて悪かったね。分単位で動いていたから、落ち着いてメッセージする事もできなかった」
慎一郎が腰を屈め、横から覗き込むようにして視線を合わせてきた。その瞳に取り込まれてしまいそうになり、麗美はとっさに下を向いてかぶりを振る。
「い、いえっ、十分連絡はいただいてました」
事実、彼は出張中も二日に一度は麗美にメッセージを送ってくれていた。それに対して、麗美もきちんと返信しており、一昨日の午前中には、今日持参する弁当の中身についてやりとりした。
「今日はデザートのお土産もあるよ。さっそくランチにしよう」
ようやく腕を解かれ、テーブルセットのほうにエスコートされる。先に椅子に腰かけるよう誘導され、すぐ右側に慎一郎が座った。
麗美がランチボックスをテーブルの上に並べ終えると、慎一郎がすぐに箸を持って「いただきます」を言う。
そして、まっさきにちくわの磯部あげを箸で摘まみ、一口口に入れてにっこりする。
「リクエストしたちくわの磯部あげ、やっぱりこれは外せないな。う~ん、うまい……。久しぶりに、本当に美味しい食べ物を食べた気がするよ」
今日の弁当には、白身魚のフライやシュウマイなど、慎一郎が食べたいと知らせてきたものばかり入っている。
もともと外食が得意じゃない彼の事だ。きっと出張中は完全栄養食を持ち歩いていたに違いない。
聞けば、案の定そうだと言う。
「やっぱり」
彼は誰かがきちんと管理してあげなければ、すぐに食生活が乱れがちになる人だ。
何とかしてあげたいと思うも、自分の立場ではランチを用意する以外どうすることもできない。
麗美は、改めて慎一郎の顔を正面から見つめた。しかし、身長差があるせいで、どうしても下から見上げる格好になる。すると、彼は若干前かがみになって、目線の高さを合わせてくれた。
思わず頰が赤くなるのを感じながら、麗美は慎一郎の顔を左右から見直してみた。
「社長、少し痩せたんじゃありませんか? それに、顔色もあまりよくないような気が――」
そこまで言った時、慎一郎がふいに麗美の左手を取って自分の右の頰に押し付けてきた。突然親密な態度をとられ、麗美はたじろいで息を呑んだ。
「そうかもしれないな」
「ダメですよ、ちゃんと食べて十分な睡眠をとらないと」
麗美がそう言うと、慎一郎が頷きながら、やや難しい顔をする。
「どうかしましたか?」
「うん……実はね……」
慎一郎が声を潜め、麗美の目をじっと見つめてきた。
「今から話すのは、最高機密事項だ。麗美だけに話すんだが、ぜったいに誰にも言わないと約束できるかな?」
握ってくる指先が、手の甲をなぞる。それだけでも胸がドキドキするのに、彼は顔の位置をほんの少し右にずらし、麗美の掌にそっと唇を触れさせてきた。
「は……はい、もちろん、誰にも言いません」
麗美は神妙な面持ちで、唇をギュッと結んだ。
「よろしい。……実は、僕は寝具メーカーの社長なのに、眠るのがあまり得意ではないんだ。ベッドで横になっても、だいたい一時間くらいは眠れなくて起きているし、眠ってもほぼ毎晩途中で目が覚める。熟睡なんて無縁だし、しかもこれが物心ついた頃から続いているんだ」
「えっ……そんな前からですか?」
慎一郎が頷き、長いため息を吐く。
「いい加減もう慣れたけどね。自宅以外の場所で眠る時は、特に眠りが浅い。今回の出張では、いつも以上にそう感じた。たぶん、麗美に会えず、料理も口にできなかったせいで、余計そうなったんじゃないかと思うんだけど、どうかな?」
「ど……どうって……」
「この間は、いきなりキスなんかして、すまなかった。驚かせたのなら、謝る。だけど、決していい加減な気持ちでしたんじゃない。それは、わかってくれるね?」
目をじっと見つめられ、反射的に「はい」と返事をする。
「じゃあ、先週の金曜日、別れ際に僕が言った事を覚えてるかな?」
顔をグッと近づけられ、仰け反った拍子に顎が上を向いた。左手で腰を抱かれ、お互いの太ももがぴったりとくっつく。
『もっとキスをして先に進みたかったけど、残念ながら今日はここまでだ』
『今度会った時が楽しみで仕方ないよ』
彼がそう言った時の表情が、慎一郎の顔に浮かんでいる。
「お……覚えてます……」
頰を真っ赤にして返事をする一方で、麗美の頭の中で、もう一人の自分が警鐘を鳴らし始める。
(麗美! 社長との未来はない――この事を忘れないで!)
わかっている。
しかし、こうして実際に慎一郎と顔を合わせ、触れられている今、またしても報われない恋心が大きく膨らみ始めていた。
(馬鹿なの? 夢見るシンデレラなんて、似合わないよ! 目を覚まして! 今すぐに社長から離れなさい! 今すぐに!)
麗美は自分自身にそう言い聞かせた。けれど、結局はそうできないまま、慎一郎の腕の中にすっぽりと抱き込まれてしまう。
「麗美……」
「しゃ……しゃちょ……んっ……ん、ん……」
戸惑う唇を舌で割られ、いきなりはげしいキスが始まる。すぐに身体中が熱くなり、同時にブルブルと震えだした。
背中に回っていた慎一郎の右手が、麗美の頰をそっと包み込む。指先で耳のうしろを撫でられ、身体が敏感に反応する。
「ぁんっ! ふぁ……」
今まで一度も出した事のないような甘い声が零れ、麗美は我ながら驚いて目を大きく見開いた。
慎一郎と目が合い、恥ずかしさのあまり、半ば強引に顔を背けキスを終わらせる。
その直後、彼の唇が麗美の首筋に触れた。
「麗美、今のはすごく可愛い声だったな」
そう言われると同時に、そっとそこに口づけられ、ねっとりと舌を這わされる。首筋にキスをするリップ音が繰り返し聞こえ、彼の唇が徐々に制服の胸元に向かって下り始めた。
「あっ……あ……」
ブラウスの襟元を指で引き下げられ、そこに音を立ててキスをされる。
慎一郎の指が、ブラウスの中に入り、デコルテをそっとくすぐってきた。
「ひっ……あ……しゃ、しゃちょ……ま、待ってください!」
麗美は上体をひねって、なんとか彼の腕の中から逃れようとした。しかし、麗美の腰を抱く慎一郎の腕はびくともしない。
「待つって、なにをどんなふうに待つんだ?」
そう話す彼の指が、ブラウスのボタンにかかった。
これ以上、先に進む前に、言うべきことを言ってしまわなければ――
「あ……あのっ! 私、社長に言わなければならない事があるんです。実は、ここの派遣を辞めてどこか別の働き口を見つけなければいけなくなりました」
ボタンにかかる指が止まり、慎一郎が麗美の首元から顔を上げた。
「なんだって? ここを辞める?」
麗美を見る彼の顔に、はっきりとした困惑の色が浮かんだ。
それを見てチクリと心が痛んだが、たった一人で生き抜いていくためには、そうする以外に、方法が見当たらなかった。
「だから、もう社長のお弁当を作る事ができなくなります。約束して早々、本当に申し訳ありません。事前にお預かりしているお金は、今日ここでお返し――」
「ダメだ」
麗美が話すのを遮るように、慎一郎が声を上げた。決して大きな声ではないし、むしろいつもより低く落ち着いた声だ。だが、その口調には有無を言わさぬ迫力があり、顔には容易に反論できないほど神妙な表情が浮かんでいる。
「え……でも――」
「悪いが、今の話は到底受け入れがたい。お弁当の件は、口約束とはいえ、申し込みと承諾の意思表示が合致した以上、正式な契約として成立している。今さら破棄する事はできない」
慎一郎がきっぱりとそう言い切り、麗美の顔をじっと見つめてくる。
「そもそも、ここを辞めるのはなぜだ? 理由を聞かせてもらえるかな?」
彼に問われ、麗美は事情を説明した。
「なるほど、そうか……。それなら、いい解決策がある。今から言う僕の提案を受け入れてくれたら、麗美はここを辞めずに済むし、しかも新しく住むところだけじゃなく、お弁当とは別に副収入まで得られる」
慎一郎が、にっこりと微笑んで麗美の左手を強く握ってきた。
今の話を聞く限り、それは信じられないほどの好条件だ。そうできれば、少なくともすぐに彼とのかかわりをなくさないで済む。
「そ、それってどんな提案なんですか?」
麗美は、勢い込んで彼にそう訊ねた。
「簡単だ。麗美が僕の家に引っ越して来ればいい」
「えっ……? 引っ越し……私が、社長の家にですか?」
予想外の発言に、麗美は目を白黒させた。
「そうだ。僕と同居して、ランチだけじゃなく朝晩の食事を作ってほしい。むろん、食事は同じものを食べるから、そういった意味では、これまでよりも少しは手間が省けるかな? 一緒に食べれば、今みたいに食も進むし、いろいろといいことずくめだ」
「で、でも……」
「もちろん、それ相応の給料は払うし、快適に暮らせる部屋も提供する。麗美は『綿谷』を辞めずに済むし、二人にとって、プラスになる事ばかりだ。どうかな?」
「ど、どうかなって……そんなの、無理に決まってますっ」
「なぜ?」
間髪入れずに問われ、首を傾げられる。
「だって、と、年頃の男女が同居するとか……道徳的に問題があります!」
「道徳的に? ああ、なるほど。麗美は僕に襲われやしないかと、警戒してるんだね」
慎一郎がニヤリと笑った。
いったい、何を言い出すのかと思えば……麗美は、即座に首を横に振り表情を強張らせた。
「違います! 社長が私を襲うとか、そんな事、思ってません!」
「じゃあ、どういう事だ?」
今にも鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけられ、麗美はできる限り頭をうしろに引いた。
「その……社長には、恋人というか、決まった方がいらっしゃるんじゃないかと……」
「ああ、そんな事を気にしていたのか。それならまったく心配ない。今のところ彼女はいないし、無理をしてまで作るつもりもないから」
「そうですか……でも、会長や親戚の方々から再三お見合いを勧められていると聞きました。だとしたらやはり一緒に住むのはどうかと思います」
麗美が、きっぱりとそう言い切ると、ふいに彼の表情が曇り、難しい顔つきになる。
「なるほど、確かに僕のところにはあちこちから見合い話が集まってきている。だが、あいにく僕にはまったくその気がない」
慎一郎が言うには、持ち込まれる写真には、一応礼儀として目を通すが、ただそれだけ。実際に見合いをした事もなければ、今後もする気はないという。
「僕は、もともとあまり人や物に執着がなくてね。それでも、最近は少しずつ変わってきたのか、自宅を買う時は人並み以上にこだわりを持って建てたし、今も気に入って住んでいる」
「だったら、そのうち女性対する考えも変わってきて、お見合いをする気になるかもしれませんよ」
「いや、それはないだろうな」
彼はそう言うと、改めて麗美をじっと見つめてきた。
「僕は、女性に関しては特に淡白で興味が薄い。しかし、立場上それではいけないと思い、何人かの人と付き合ってみた事はある。だが、結局、誰に対しても心が動く事はなかったし、交際しても毎回半年も持たなかった」
そう語る慎一郎の様子は真摯で、噓をついているようには見えない。
「それが僕のスタイルだったし、自分はもう一生そんな感じなんだと思っていた。しかし、麗美に対しては、まるで違う。会えばすぐにまた会いたくなるし、話せば話すほど、もっと深く麗美を知りたくなる。これには自分でも驚いているし、正直ものすごく戸惑ってるよ」
「そ、それは、どうしてですか?」
「さあ……どうしてかな。とにかく、麗美の事が頭から離れないんだ。麗美のすべてに興味がある。そうじゃなければ、同居を提案したりしないし、ましてや自分からキスなんかしない」
ふいにキスの話題を出されて、麗美は顔を赤くして唇を嚙んだ。
「言っておくが、これは麗美限定の変化だ。ほかの女性には、依然として興味は引かれないし、当然見合いもする気はない。だから、安心して家に来てくれ。それに、僕は君が調理師になる夢を、心から応援してる。何か助けになれたらいいと思うし、引っ越しの提案もそのひとつだ」
彼が夢を応援してくれるのは、素直に嬉しいと思う。
しかし、やはり自分達が一緒に住むなんて、どう考えてもおかしかった。
麗美が困り果てていると、慎一郎が大きくため息を吐く。
「正直言って、今君のお弁当を食べられなくなるのは、すごく辛い。僕は今後も出張が続くだろうし、麗美がお弁当を作ってくれないとなると、また元のような食生活を送るしかなくなるな。せっかく『食』に対して興味が出てきたのに、元の木阿弥になるって事か……」
慎一郎が静かな声で独り言を言う。
「麗美の料理を毎食食べられるなら、すぐにでも完全栄養食を処分するし、野菜も意識して食べるようにするんだが……。だけど、そうするにも麗美の手助けが要るだろうし、同居がダメとなるとそれも無理だろうな。……ああ、なんだか絶望的な気持ちになってきた」
彼の表情がいっそう暗くなり、もう一度ため息を吐くと同時に、がっくりと肩を落とす。
そこまで言われては、もう断るという選択肢を捨てるほかはなかった。
「わ……わかりました、同居します! 同居して、私が学校の寮に入るまでの間に、社長の食生活を完璧なものにしてみせます!」
麗美がそう言うと、慎一郎が即座に顔を上げた。
「本当か?」
「はい」
「やった! じゃあ、同居するって事で決まりだね」
慎一郎が破顔して、麗美をギュッと抱きしめてくる。
「ありがとう、麗美。さっそく高橋くんに言って、引っ越しの手配をしてもらおう。さて……イチャイチャするのはもう終わりだな。そうじゃないと、食べ終える前にランチタイムが終わってしまう。ほら、麗美も――」
名残惜しそうに抱擁を解くと、彼は箸を持って再び弁当を食べ始める。
「あ……はいっ……」
麗美も箸をとり、ちくわの磯部あげを口に入れた。
うん、美味しい。
明日のお弁当には、コーン入りのちくわの磯部あげを作ってみようか――咀嚼しながら献立について考え、ハタと箸を止める。
(って、ちょっと待って! 私、本当に社長と同居するの⁉)
彼が言うように、それが一番手っ取り早く、双方にとっても最善の解決策には違いない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?
この一週間、慎一郎との関係性について悩み、間違っても本気で彼に恋してはいけないと自分に言い聞かせてきた。けれど、会えば胸がときめくし、今もそうだ。触れられれば即座に顔が赤くなり、息が苦しくなる。
そんな状態で同居すれば、いよいよ慎一郎を想うようになるのではないだろうか?
けれど、さっき見た彼の悲しげな顔は麗美の脳内にしっかり刷り込まれてしまった。
麗美は、口の中のものをごくりと飲み込むと、隣に座る慎一郎をこっそりと盗み見た。
彼は、旺盛な食欲を見せて、次々におかずを口に運んでいる。その顔に浮かんでいるのは、清々しいほどに明るい笑顔だ。
それを見た麗美の胸が、ふいにギュッと痛くなった。
(ダメだ……私、社長の事、もう本当に好きになっちゃったかも。っていうか、本気で社長にきちんとしたごはん食べさせて、ちゃんとした食生活を送らせてあげたい!)
「食べさせる」だの「送らせてあげたい」だの、何を偉そうに――そう思うものの、湧き起こってくる気持ちは、どんどん強くなるばかりだ。
今思えば、慎一郎の食に関する話を聞いた時、もうそんな感情を抱き始めていたのかもしれない。
恋心に加えて、そんな保護本能にも似た感情が込み上げてきて、麗美は思わず胸元を押さえて息を止めた。
「どうかした?」
箸を止めたまま動かない麗美を見て、慎一郎が気づかわしげな顔を向けてきた。
「い、いえっ……な、何でもないです! あの、家賃はいくらお支払いすればいいですか?」
「そんなものはいらないに決まってるだろう? 食事の準備をする回数が増えるんだから、逆に先日決めた金額に上乗せをする必要がある。必要なら同居するにあたって正式な契約書を取り交わしてもいいし、そうでなくても、麗美には相応の給料も支払わせてもらう」
「そんな……お給料なんていただけません! 私がいれば、余分な水道代や光熱費だってかかるし、住むところを提供していただけるだけでも、ありがたいのに……」
「ありがたいのは僕のほうだ――」
しばらくの間押し問答が続き、話し合いの結果、家賃の支払いはゼロ。麗美には住みこみの家政婦がもらう一般的な給料が支払われるものとし、その代わりに食事だけではなく、家事全般を請け負う事になった。
「それと、同居するんだから、会社ではともかく家では、もう少しフランクに話してくれると嬉しいな」
「はい……わかりました。なるべく、そうするよう努力します」
「ああ、そうしてくれ」
慎一郎が頷き、軽やかな笑い声を上げる。
宿なし寸前の身から、一転して住むところだけではなく副収入も保証された。
ありがたすぎて、しばし呆然としていた麗美だが、だんだんと事の重大さに気がついて再度落ち着かない気分になる。
(私が社長と同居……。朝起きて、夜寝るまで……ううん、寝てからもずっと同じ屋根の下に――)
そう考えると、急に恥ずかしさや困惑する気持ちで、頭の中がパンパンになった。
上の空で飲み込んだものが喉に詰まり、麗美は激しく咳き込み始める。
「ごほっ! ごほん! うぐっ……!」
「どうした、大丈夫か?」
「は……ごほっ!」
無理に返事をしたのがいけなかったのか、余計咳が出て、しまいには涙目になる。
前かがみになる麗美の背中を、慎一郎が抱き寄せて、トントンと叩いてきた。咳がだんだんと治まってくるにつれて、彼の掌が麗美の背中を優しく擦り始める。
その掌が、とても温かい。
麗美は彼の温もりを感じながら、どうにか心を落ち着かせる。
「は……はい、もう大丈夫です……」
ようやく咳が治まって顔を上げると、涙のせいでこちらを見る慎一郎の顔が、若干歪んで見えた。
その口元に、ごはん粒がついている。
それを見ると同時に、麗美の心の中で、今までなんとか抑え込んでいた彼への恋心が怒涛の勢いで溢れ出した。
(ああ、もうダメ――)
これほどハイスペックで優しさとセクシーさを併せ持つ美男なのに、ごはん粒をつけたままお弁当を食べている。
見つめているだけで、トキメキがハンパない。これまで、まともに恋すらした経験がない自分だけれど、今の状態が尋常ではない事くらいわかる。
こんな状態で同居が始まれば、いったい自分はどうなってしまうのか……。
麗美は、にこやかに微笑む慎一郎と視線を合わせながら、深い恋の沼に真っ逆さまに落ちていく自分をありありと感じるのだった。