「一生あなたを守り抜きます」
高司家の下働きとして虐げられる撫子には過去の記憶がない。陸軍将校の龍崎尊を助けて当主の怒りを買った彼女は、皮肉にもそのことで失っていた悲しい記憶を取り戻す。今度は尊に救われた撫子だが、匿ってくれた彼との共同生活が始まり!? 不器用ながら優しい尊に守られ、初めて安らげる居場所を得た撫子は愛される歓びを知っていき──。
「あの夜のことも、ずっと気にしていました。あなたがこういったことに恐怖や嫌悪感を持たなかったかと心配で」
尊の大きな手が、撫子の頬を宝物のようにすくいあげる。
「自分は、普段はあんな野蛮な男ではありません。ずっとあなたの恐怖を取り除きたいと……いえ、違いますね」
尊が、撫子の目を真上からまっすぐに覗きこんだ。
「正直に言います。あなたを抱きたい」
撫子の小さな頬に、ぱっと朱が散る。
胸の奥から、身体の奥底から、心の真芯から、何かがこみ上げてくる。あたたかくてやわらかくて優しい、とても幸福な光のようなものが。
今までのすべてをやわらかく包み込んで清めるような、清々しくも大きな希望が。
これは何と、聞かなくてもわかる。
本能でわかる。
人はきっと、こんな気持ちを愛しいと、愛と呼ぶ。
尊がゆっくりと顔を近づけ、撫子の唇を奪う。しっとりと重なる唇は少し乾いていて熱い。
――唇に口づけをなさるのは、初めてだわ。
撫子は息をしていいものかもわからず、ひたすら目をぱちぱちと瞬かせた。
すると、尊がわずかに唇を放し、ふっと微笑う。
「……尊さま? わたくし、何か不調法をいたしましたでしょうか?」
「いいえ、そうではありません」
尊が愛おしそうな表情を浮かべて、撫子の顔に手を伸ばした。指の先で、撫子の、まだ涙の残りが絡む長い睫毛にそっと触れる。
「睫毛がね。あなたがあんまり瞬きをするものですから、くすぐったくて」
「まあ……それは、ご無礼を……」
謝りきらないうちに、またも唇を塞がれる。
「謝ることではありません。むしろ嬉しいので」
そういうものなのだろうか。
「でも、あなたが目を閉じて接吻を楽しむことができるようになったら、もっと嬉しいですよ」
「た……楽しむ…………ですか……?」
吐息が触れ合うだけでも目が眩みそうで、胸がどきどきして苦しいというのに。
尊はなんという無茶を言うのだろう、と撫子はちょっと怯んだ。
そんな日は、永遠に来ないような気がする。
「順序が後先になってしまったことは、自分としても非常に心外ですが。本当は自分はあなたに、こんなふうに触れ合うことから関係を始めたかった」
率直な物言いだけれど、尊の言いたいことはわかるような気がする。
「……あの」
「なんでしょう?」
聞いてみたかったことを、そのまま尋ねてみる。
「わたくし、尊さまのことをお名前でお呼びして、本当によろしいんですの?」
「良いも何も、自分がそうお願いしておりますが」
「でもサトさんたちは尊さまのことを、『若旦那さま』と呼びますでしょう? わたくしも、『旦那さま』とお呼びした方がよろしいのでは……?」
尊が撫子を抱き締めたまま、しばらく考えこんだ。
「――あなたが自分のことを『旦那さま』と呼ぶのなら、自分もあなたのことを『奥さま』と呼ぶことになりますね」
「え」
「あなたが名前で呼んでくださるなら、自分も名前で呼びます」
どちらがいいですかと尋ねられて、撫子は言葉に詰まってしまった。
――名前で呼ばれるのは、とても好き。
尊が自分を呼ぶときの、低く硬質な声がいつもより少しやわらかくなるのを耳にするだけで、撫子はいつも幸せに包まれる。
その声での、『撫子さん』という温かい呼びかけが、撫子はとても好きだった。この人に名前を呼ばれるということは、それだけでうっとりするくらい心地よい。
――高司の洋館では、名を呼ばれることすらなかったもの。
そう思って、ふと思い当たる。
「――わたくしだけではなく、尊さまも、お名前で呼ばれる方がお好き……?」
『少尉さま』でも『旦那さま』でもなく。
自分ひとりだけの、両親から贈られた名を好きな人から呼ばれたいというのは、ごく普通の望みなのかもしれない。
撫子も、自らの境遇を引け目に感じて控えるのではなく、自ら幸せを掴みたいと望んでもいいのかもしれない。
ようやくそのことに気づいて顔を上げると、尊は穏やかな笑みを浮かべて撫子をじっと見つめていた。
「撫子さん。目を閉じてください」
「はい。尊さま」
心が未だまっさらなままの乙女は無邪気に頷いて、目を瞑る。
あまりに優しくあまやかなそのしぐさに、尊が喉の奥で唸った。
「自分以外の男性の言うことを、こんなに簡単に聞き入れてはいけませんよ」
尊は存外嫉妬深い。
「浮気は論外です。自分は、あなた以外の女性になど目もくれません。あなたも、どうか」
自分以外の男を見ないでください。
小さく小さくそうつぶやいて、再び口づけが始まる。
吐息を絡めて、握り合った指先も絡め合って。
黒髪も、素肌も絡みつかせるようにぴったりと密着して、時間をかけた愛撫が始まる。
撫子を、万が一にも怯えさせないようにゆっくりと。
優しく、じっくりと時間をかけて蕩けさせられる。
撫子の桜貝のように小さな爪先も膝の裏もうなじも、尊の唇が触れていない場所など、もうどこにもなかった。
空気すら入りこむ隙のないほどぴったりと肌を合わせて、真上から尊の大きな体躯に押し潰されてしまいそうなのにちっとも苦しくないのは、長い腕にしっかりと守られているからだ。
情熱的に白い素肌の上を這い回る唇が、胸を襲う。
武器を扱い敵を容赦なく打ちのめす手は、撫子の下腹部の奥へ。
――何をされても、尊さまなら平気。
そう思っていても、いざ足を開かされると、全身が竦む。初めての夜のことは覚悟して受け入れたとはいえ、あの激しさだけは、思い出すだに怖じ気づいてしまう。
「薬などなくとも、止まりそうにありませんね」
照れくさそうにつぶやいた尊が、撫子の様子に気づいて眉根を寄せた。
「怖いですか?」
「……少しだけ」
撫子は偽らずに答えた。
尊は束の間驚いたように息を詰め、それから、おもむろに撫子の左胸に耳を押し当てる。
「本当だ。どきどきしていますね。脈が速い」
目を細めた尊が、撫子の手を取って心臓の辺りにあてがった。
筋肉と、引き締まった皮膚に覆われた胸板はとても厚いけれど。
撫子に勝るとも劣らない激しい鼓動が、手のひら越しに伝わってきた。
「自分もです」
お互い同じというのは、どうしてこうも安心するのだろう。
尊が、感嘆するほどやわらかな撫子の肌の手触りを愉しみながら尋ねる。
「どうすれば怖くありませんか」
躊躇いがちに、遠慮がちに。
もともと慎ましい性格の撫子が、控えめに甘えた。
「名前、を……呼んでくださいましたら」
撫子はもう、何も怖くない。
それからは、夢のようだった。
甘やかされて愛撫をたくさんたくさん施され、胸も下肢の淡い茂みもその奥も、尊の舌に濡らされる。
いったい、どういう行為なのだろう。
撫子は不思議で仕方ない。生まれたままの姿で抱き合って、ひどく罪深い、とても他人には見せられないようなみだらなことをしているというのに。
肌を合わせるというのは、どうしてこんなにもあまやかな気持ちになるのだろう。相手が尊だからだろうか。
もしこうしているのが尊でなかったら、きっと、殺されるよりも恐ろしい、厭わしい行為に違いない。
「力を抜いていてください。この数日我慢していたぶん、少し激しくなるかもしれませんが」
宝物のように大切に愛しまれる感覚に、声も出ないくらいに酔いしれる。
恥ずかしくても、だめだとわかっていても、尊に見つめられ、触れられ、愛されると溺れてしまう。
「純真なあなたには、あの夜はさぞ恐ろしかったことでしょう」
許してくださいと、尊が深い後悔を滲ませて呻く。
尊の頭を、撫子が両腕でかき抱く。
確かに痛かったし怖かったけれど、いやではなかったと伝えたい。
だって、撫子が自分で選んだのだ。想像を絶する行為だったことは確かだけれど、決して後悔はしていない。
むしろ、尊がいつまでも気に病んでいることの方がいやだった。
「尊さま」
はしたないだろうかと逡巡しながら、そっと、自分の唇を尊の唇の端に押し当てる。
言葉は必要なかった。
やわらかな胸も、薄いお腹も、甘い香りを放って尊を誘惑する。
何もかもを受け入れて許そうとする撫子の姿は、慈愛深い女神のようだった。息を呑んだ尊が、撫子の中に侵入を果たす。
男盛りの尊の充溢したものをゆっくりと受け入れて下肢を繋げ、ふたり一緒に熱く爛れる。
愛されて、怖いなんて微塵も思っていなくてふわふわと雲の上を漂っているような気分なのに、尊が何度も何度も撫子の名前を呼ぶ。
それに応えて、撫子も尊の名を呼ぶ。
「もう二度と、乱暴にはしませんよ」
少し苦い光を目に宿らせた尊が腰を蠢かせるたびに全身に痺れるような愉悦が満ちて、抱え上げられたままの足がびくびくと跳ね上がった。
「尊さま、尊さま、何か、変です…………っ」
手近にあった枕に顔を押しつけて、声を殺す。
――流されてしまってはだめ。
潔癖な性分の乙女が、こみ上げる悦楽に翻弄されて、必死に懊悩する。
素肌から若い男の匂いを発散させた尊が、器用に片眉だけを吊り上げた。
「声を我慢しないで。聞かせてください」
それだけは、絶対にいや。
ふるふると首を横に振る。
「撫子さん?」
頑固に、またしても首を振る。
「――撫子」
不意打ちのようにそう囁かれた瞬間、撫子の全身をあまい衝撃が駆け巡った。
「ぁ……っ」
声が漏れ出てしまう。
すかさず尊が、淫猥な蠢きを再開してぐいぐいと腰骨を押しつけてきた。
「夫婦の契りだ。何も遠慮は要らない」
この屋敷には、夜の間は撫子と尊のふたりきり。
生け垣に囲まれた広い屋敷の中で叫び声を上げても、近隣の家には聞こえない。
肉のぶつかる音、みだらな水音に紛れて、撫子はもう声をこらえきれなかった。
「尊さま……だめ、あっ!」
白い背中が、緩くたわむ。
お互いの下肢をぐっしょりと潤す蜜がどちらのものであるのか――肌と肌の境目がわからなくなるくらい溶け合って抱き合う。
性的に無垢な妻に、尊が性の楽しみと歓びを教え込む。
尊の言うことならなんでも素直に受け入れる撫子が、男女の交わりの愉しみを、蕾が花開くように少しずつ覚えて、あまやかに呻くようになるまで。
「やあ……!」
咲き初めていく匂やかな肢体に、尊も次第に理性を失う。
雄々しく漲るものの優しく執拗な突き上げに、何度も蜜が迸り、ふたり諸共に汗と体液にまみれて愛し合う。
精根尽き果てた撫子が気を失うように眠りにつくまで、尊の情熱的な愛撫は留まることがなかった。