大学時代に自分を慕ってくれていたワンコ系の後輩・郁弥と再会した雨音。ひょんなことから彼が雨音の会社で働くことになり、親睦をかねて二人で飲みに行く。自分に好意がある素振りを見せる郁弥を雨音は牽制するが、それをきっかけに彼の態度が一変。「絶対オトしてみせるから」――今までとは違う「男の顔」で郁弥は強引かつ激しく迫ってきて……!?
時刻は二十時半。今日が土曜ならもう一軒行ける時間帯だけど、生憎の日曜。明日の仕事に備えてそろそろ帰る時間だ。どちらともなく駅の方向に向かって歩き出しているのは、お互いがそういう認識だからなのだろう。
解散が名残惜しいだなんて、昨日の私は想像だにしなかった。こんなに楽しい時間を過ごせたのは予想外だ。
「ずっと気になってたんだけど」
歩くペースは、店にやってきたときよりもかなりゆっくりだ。おもむろにいっくんが言った。
「何?」
「雨音先輩、この一年はフリーって話だったよね?」
何でそんなことを知っているのかと訊きそうになった瞬間、矢藤グループ飲みでのワンシーンを思い出した。美景がわざわざ暴露していたっけ。
「てことは、裏を返せば一年前は彼氏がいたわけでしょ。それが妬ける」
「……そんな、過ぎたことを言われても」
私は口を尖らせて言い、小さく笑った。
「雨音先輩は恋愛よりもサークル活動が大事って、現役のときに公言してたじゃない。それがあったから、勇気が出なかったのもあるんだよね。先輩が恋愛にも気持ちを向け始めたときに告白しようって決めてたのに、俺の知らない誰かと付き合ってたっていうのが、面白くないというか」
「二十七歳にもなれば、男の人と付き合うこともあるよ」
私だって恋愛にまったく興味がないわけじゃない。素敵だなと思う人がいれば好意を抱くことだってあるし、その気持ちが通じたら当然、付き合うって展開があっていい。この歳なら結婚に至っていてもおかしくないのに。
「どんなヤツ?」
「どんなヤツ、かぁ……」
職場の前多さんから紹介してもらった二歳年上の男性。友達から始めて、ふたりで会って三回目のときに付き合うことになった。
彼と恋人同士がすることを一通り経験したくらいで、あちらから急に別れを告げられた。他に好きな人ができたから、が理由。多分、半年も保たなかったと思う。始まりから終わりまで、あっという間の恋だった。
「そんなこと訊いてどうするの」
頭のなかに浮かんだかつての恋人の顔を打ち消しつつ窘めた。
「雨音先輩を恋人にできたってソイツがどれだけいい男なのか、気になるじゃん。俺と似たようなタイプなのか、まったく違うのか、とか」
「私のことをそんないい女みたいに持ち上げてるのが、そもそもおかしい」
笑い飛ばしながら、今しがた頭のスクリーンから追い出した彼は、目の前の彼とはまったく違うタイプだったな、と、ぼんやり思う。
取り立ててイケメンなどではなかったけれど清潔感はあって、あまり冗談は言わない寡黙な人。特徴という特徴を思い出そうとして、そういうワードしか浮かばないような――平凡という言葉がしっくりと填まる人だ。そう、私と同じように。
「いい女だよ」
すると、そんな思考を断ち切るくらいのはっきりした声音でいっくんが言った。
大通りに出て、駅へ続く道をずっと歩いてきた私たち。気が付けば、駅の眩いくらいの白い明かりがすぐそこに迫っていた。いっくんとふたり、駅の入り口にある大きな柱の前で立ち止まると、彼が私と向き合い、改めて口を開く。
「雨音先輩は俺にとって誰よりも素敵な女性。それは大学時代も今も変わらない。先輩も今は昔と違って、男と付き合うこともあるって言ったよね。……こんな最大のチャンス逃せないから、言うね」
いっくんは小さく息を吸い込んだあと、意を決したように言った。
「俺と付き合おう」
真っ直ぐに響く彼の声は、いつになく緊張していた。だからそれが揶揄や冗談ではないとすぐにわかった。真剣そのものの声音。私と彼の間に流れる空気が、ぴんと張り詰めたものに変わる。
「…………」
いっくんからの好意は十二分に受け取っていたし、私をデートに誘ってくれたのも根底に付き合いたい気持ちがあるからではないか、と予測していた部分がある。なので驚かなかった。
驚いたのは私自身の心境の変化だ。
彼とは一回デートをして終わりにするつもりだった。だけどどうだろう。いざデートをしてふたりの時間を過ごしたら、彼の告白への回答に迷っている自分がいる。
もう私のなかで、いっくんは『可愛い後輩』ではなくなってしまった。新しくカテゴライズするとしたら、それは――
言葉を紡げないでいる私を、いっくんが抱き寄せる。いつかも感じた、ヘアワックスの香りが鼻をくすぐる。
「絶対、大事にするから」
甘い囁きが落ちた瞬間、身体ごと心臓になったのではと勘違いするくらい、ドキドキしていた。駅前の、誰に見られてもおかしくないような場所でハグされているからではない。誰かが見ていたとしても気にならなかった。それくらい、いっくんに抱きしめられている今で頭がいっぱいになっている。
これ以上、自分の気持ちに蓋をし続けるのは不可能だった。
もう自分をごまかせない。私は、いっくんのことが好きなのかもしれない。
彼と話しているときや、こうして抱きしめられているときの高揚感は、恋をしているときのものに似ている。私は今、いっくんに恋をしている……?
ゆらりと彼の顔が近づく。重なろうとする唇を、今回は拒まなかった。
二回目だというのに、温かくて柔らかいこの感触に心が安らぐ感じがするのは、彼に対する感情が大きく変わったせいだろう。
啄むような優しいキスのあと、彼がまた囁いた。
「やっぱり帰したくない。もっと一緒にいたい」
私の答えを待ついっくんの縋るような眼差しが、いつもの、か弱い子犬を連想させる。
使い分けてくるとはずる賢い。でも……私も同じ気持ちだった。
まだ帰りたくない。いっくんと一緒にいたい。
私は胸に甘く駆け抜けていくものを感じながら、小さく頷いた。
駅の周辺にいっくんの自宅があるというので、お邪魔することにした。
待ち合わせをした南口とは逆の北口には、住宅街の広がる一帯がある。そのなかにある大きな公園に隣接しているマンションの一室が、彼の家だという。
外観を見てびっくりした。公園のすぐ横ということもあり豊かな緑に囲まれた建物は五階建てで、ラグジュアリーで風格のある面構え。いわゆる高級マンションの部類に入る物件なのではないだろうか。
部屋に辿り着くまでの間も驚きの連続だった。ロビーにはコンシェルジュの姿があり、その先のエレベーターホールにつながる道には絶えず水の流れるオブジェが見え、淡い光を放っている。
突き当たりのエレベーターホールにはエレベーターが四基も設置されていた。奥行きのある建物ではあるけれど、四基も必要なほどの戸数はなさそうなのに。
彼の部屋は三階の、エレベーターから出てすぐの場所。ホテルのような内廊下は、床が絨毯張りで靴底が軽く沈み込む感じがする。温かな間接照明が、より上質な雰囲気を作り上げていた。
「いっくんって何者なの?」
部屋の扉にスマホを翳すいっくんに訊ねた。
……最近のマンションは、スマホで鍵をかけたり開けたりできるらしい。そういえば、エントランスのセキュリティもスマホで通過していたっけ。
「何者って?」
「こんなすごいマンションに住んで。私たちくらいの歳で普通に住めるわけないじゃない」
「普通だよ。サラリーマン」
「……何か怪しい副業してるとか」
人に隠しているような。なんて、つい疑わしい視線を送ってしまった。
「そう見えるなら心外だな。上がって」
声を立てて笑う彼の言い分に納得がいかないながらも、促されて部屋に上がった。
明かりをつけ、細長い廊下の先を進むと、ダイニングとリビングのスペースに辿り着く。こざっぱりした室内はきちんと整理整頓されており、几帳面さが窺えた。脇に見える対面式のキッチンも同様だ。
「きちんとしてて偉いね」
「掃除は嫌いじゃないからね。最低限のことしかしてないけど」
物珍しさから室内を見回す私の手を引き、廊下を玄関のほうへ戻っていく。そして、一番外扉に近い位置にある部屋に案内された。シーリングライトに照らされたのは、彼の寝室。パッと見て目に入るのはベッドと本棚くらいのもので、他の部屋と同様にきちんと片付けられている。
「暑い?」
「そうかも」
部屋のなかは過ごしやすい温度なのに、私は既に緊張で少し汗をかいていた。いっくんがエアコンのリモコンを操作する間に、気を紛らわせるため本棚を眺めた。ビジネス書と小説の文庫本が多いみたいだけど、意外と美術系の本も置いてある。
――あ、あの画集。サークル活動で行った地方の美術館で買ったものだったような。
「雨音先輩」
本棚に収納された背表紙のタイトルを追っていると、苦笑気味のいっくんに名前を呼ばれる。
「あ、ごめん」
家主に断りもなく、初めて訪れた部屋のなかをじろじろと見回すのは行儀が悪い。わかっていても、ついつい好奇心を抑えられなかった。
「そうじゃなくて。……こっち見て」
謝る私に小さく首を横に振り、いっくんは両手で私の両頰を包むように触れる。固定された視線の先には、ちょっといじわるに笑う彼の顔が見えた。
「俺がもっと一緒にいたいって言った意味、ちゃんと伝わってるよね?」
「……うん」
低いトーンでの問いが耳をくすぐると、私の身体は、駅前で彼の告白を受けたときを思い出し、熱を保ち始める。私は控えめに、でもしっかりと頷いた。
いっくんがどんなつもりでそう言ったか。いい大人なのだから、その言葉の意味がわからないはずがない。理解したうえで受け入れることにした。だから彼の部屋を訪れたのだ。
「よかった。……うれしい」
安堵して瞳を細めると、いっくんは私の背中に腕を回して抱きしめた。それから、やや私の顔を仰がせて、口付けを落とす。一度。二度。触れて離れるたびにその感触が恋しくなって、たまらず繰り返してしまう。
「先輩、真っ赤な顔して可愛い」
次第に離れる時間すら惜しくなっていると、唇を重ねたままの彼の舌先が割り込んでくる。下唇をなぞるように舐めたあと、歯列を割って私の舌を探る動きは、艶めかしく官能的。表面のざらざらした感触がもたらす切ない刺激に耐えようと、思わず背が撓った。
「キス、気持ちいい?」
思う存分私の口腔を味わったあと、鼻先を触れ合わせながらいっくんが訊ねた。
「んっ……いっくんのくせにっ……」
生意気。そこまでが言葉にならず、呼吸を荒らげるだけに留まる。この陶酔する様を見ていれば、答えを聞くまでもないというのに。
「前の彼氏よりも気持ちいいなら、俺は満足なんだけど」
「な、何言ってるの」
嫉妬心からか、存在だけを知っているかつての恋人を引き合いに出すいっくんに困惑してしまう。吐息で交わす会話を打ち切るみたいに、彼がまた唇を求めてくる。
「ふぁ、んっ……」
「……答えてくれないとやめちゃうかもよ」
言葉にして聞きたいのか、私が恥じらう様子を見たいのかはわからない。その両方なのかもしれない。深く唇を重ねたと思ったら、舌先同士を触れ合わせ、遊ぶようにちろちろと動かしてくる。何かを期待させるみたいな微弱な刺激は、理性を少しずつだけれど確実に溶かしてくる。それは、飴玉を舐めるときに似ていた。
「……気持ちいい」
私は蚊の鳴くような声で答えた。圧倒的に経験の少ない私でも、彼のキスが上手だということはわかる。
唇と唇とを触れ合わせる行為が、こんなに甘やかでときめくものだなんて知らなかった。あくまで愛情を伝えるプロセスのひとつで、そこに快感や高揚感を求めたりはしなかったから。少なくとも、私が元カレと交わしたキスはそういうものだった。
「もっとしよっか。気持ちいいキス」
私の言葉を聞き届けると、彼は私の後頭部を支えて、嚙みつくように唇を重ねてくる。これまでよりももっと深い位置で重なる舌が、歯の裏や口蓋を無遠慮に侵していく。唾液をまとったぬるぬるとした感触が堪らない。
「はぁっ……子犬みたいに可愛かったいっくんが、こんなすごいキス、するなんてやだっ……」
頭のなかまで縦横無尽に舐め尽くされた気分だ。解放されると、上手く呼吸ができなかった私は胸を大きく上下させ、恨み言みたいな軽口をこぼした。
「じゃれてるんだと思ってもらえれば。子犬が」
「子犬がこんなにキスが上手いわけないじゃないっ」
息ひとつ乱していないいっくんの余裕っぷりに腹が立つ。どう考えてもじゃれるの領域を超えている。ちょっと怒った口調で言うと、彼はおかしそうに笑った。
「でも俺が主人に忠実な子犬だって言うのは、あながち間違ってないよ。雨音先輩の犬みたいなものだから」
私の手を取ったいっくんは、甲に口付けを落とした。ちゅ、という優しい音色を奏でた唇は、さっきまで激しく口のなかを弄っていたのと同じとは思えない。
「雨音先輩のことだけ見てたから。ずっとね」
「いっくん……」
そんな真摯な台詞とともに見つめたあと、
「こっち来て」
と言いながら、彼は私をベッドに導いた。ホテルライクな白いシーツとカバーに覆われたその場所に、そっと押し倒される。まるで壊れ物を扱うみたいに、丁寧な所作で。
「夢にまで見たアングル。ずっとこうしたかった」
いっくんが感慨深げに呟いたあと、私に覆い被さるようにベッドマットに手を付いた。その直後、目元に、頰に、キスが落ちてくる。
「――やっと雨音先輩が俺のものになるんだ」