大学生の百々は父親に借金を背負わされ絶望していた所をやり手の美形弁護士の遥に救われる。彼は百々を助ける為に籍を入れ法律上の夫となった。百々は彼を好きになるが、彼からはペットとしか思われていない。二十歳の誕生日に玉砕覚悟で遥に迫ると「自ら喰われにきたんだ。こうなっても仕方がないよな」予想外に積極的で甘く、情熱的に愛され始め!?
「お父さんなんか大っ嫌い! もう二度と私に近づかないで!」
何か言おうとしたら、恐怖のせいか、まるで小さな子供のような言葉しか出てこなかった。
だが私の心はこれに尽きた。もう嫌だ。大っ嫌いだ。
二度とそばに来ないでほしい。これ以上関わらないでほしい。
「なんだと……!」
「私の人生に、あんたなんかいらない!」
すると逆上した父が私の腕を掴み、地面に引きずり倒そうとした。
相変わらず、気に食わないとすぐに手が出る人だ。やはり何も変わっていないらしい。
情けないことに私の体は、小さくて軽くて成人男性が本気を出せばどうとでもできてしまう。
そのままアスファルトに叩きつけられそうになった、その時。
誰かが私の腰を強く掴み、抱き上げてくれた。
「……家族間でも『暴行罪』は成立するってご存知ですか?」
淡々とした、けれども怒りの滲み出るその声は、普段から聞き慣れたもので。
私の目から、また一気に安堵の涙が込み上げてくる。
やっぱり私を助けてくれるのは、この人しかいないのだ。
「なんだお前は! 勝手に家族の話し合いに入ってくるな!」
唾を飛ばしながら、必死に上擦る声で怒鳴りつける父。
だが明らかに遥さんに対し、怯えていることはわかる。
なんせ目の前にいるのは自分よりも遥かに背の高い、日々スポーツジムに通い鍛え上げた逞しい体を持つ若い男なのだから。
元々女や子供にしか強く出られない、情けない男なのだ。父は。
「私は百々さんのアルバイト先である、法律事務所に所属している弁護士です。あなたがかつて彼女に暴行し怪我をさせた証拠類は、今も全て私が保持しています。ちなみに大切なことだからもう一度聞きますが、家族間でも『暴行罪』や『傷害罪』は成立するということはご存じですか?」
昨今は少しずつ改善はされてきているようだが、家族間のトラブルは警察がなかなか取り合ってくれないことが多いらしい。
――だが弁護士が警察まで同行すれば、話は別だ。
ほぼ確実に、被害届は受理される。弁護士にはそれだけの権威がある。
「私には今すぐにでも、百々さんと共に警察に行き、被害届を出す用意があります」
遥さんの胸元にある弁護士バッジに気づいたらしい父の顔色が、明らかに悪い。
おそらく父は、私が夜の仕事をしていると考えていたのだろう。
だからこそ私から、金を巻き上げにわざわざやってきたのだ。
まさか私の雇い先が、法律事務所とは思わなかったらしい。
「今すぐ目の前から消えてください。そして二度と百々さんの前に姿を現さないでください。そうしなければ、私はすぐにでも警察に被害届を提出します」
据わった目をした遥さんは、淡々と容赦なく父を追い詰めていく。正直怖い。
「くそっ! ふざけやがって! 覚えてろ!」
遥さんに呑まれた父は、とうとう捨て台詞を吐いてその場から逃げるように立ち去った。
その情けない後ろ姿に、私の体が安堵から脱力する。
そのまま地面にへたり込みそうになるのを、遥さんが支えてくれた。
私を抱き寄せる彼の、その手が震えている。恐怖ではなく、怒りで。
「ふざけやがってはこっちのセリフだ……! モモをなんだと思ってやがる……!」
遥さんがこんなにも怒りを露わにしている姿を、初めて見た。
私は思わず体を震わせてしまう。男性が声や感情を荒らげる姿は、どうしたって本能的に恐怖を覚えてしまうものだ。
だが私は、それ以上に嬉しかった。
遥さんはいつも、私のために怒ってくれる。そのことが、たまらなく嬉しい。
彼を見上げてみれば、いつも涼しい顔をしているはずの彼が汗だくだった。
きっとここまで、全速力で走ってきてくれたのだろう。
震える手でスマホの画面を見てみれば、「助けて」と打ったメッセージの下に、「すぐいく。まってろ」という彼のメッセージがあった。
漢字に変換する手間さえ惜しんだのであろうそのメッセージに、私の目からまた涙が溢れ出した。
「……怖かったな。モモ。もう大丈夫だ」
珍しく優しい声で、遥さんが慰めてくれる。
普段なら、依頼者さんにしか出さないような声だ。
私は必死に込み上げてくる嗚咽を堪えながら、頷いた。
それから遥さんは私の手を引いて、成島法律事務所へと向かった。
事務所内に入ると、汗だくで泣きじゃくっている私を、皆が心配してくれる。
私が毒親から逃げているということは、他の所員の方々もうっすらと気づいていたらしい。
空いている応接室を借り、私が泣き腫らした顔を水で濡らしたタオルで冷やしていると、お茶のペットボトルを持った遥さんが入ってきた。
「親父がしばらく休んでろってさ。出勤扱いにしていいからって」
「そんな! 申し訳ないです! 腫れが引いたらちゃんと戻ります」
「……本当に真面目だな、モモは」
褒め言葉であるはずのその言葉を、今に限って遥さんは、何故か苦々しそうに言った。
「モモは頑張りすぎなんだよ。こんな時くらい甘えておけ」
そして私の汗まみれの髪を、抵抗なくぐしゃぐしゃと撫で回した。
案外心地よくて、私は思わず目を細める。すると遥さんはふと笑みをこぼした。
恥ずかしくて視線を落とし、そこで傷だらけになってしまったパンプスが目に入った。
大切に大切に履いていたのに、と。また私の目に涙が浮かんだ。
「ごめんなさい。遥さんからもらったパンプス、ボロボロになっちゃいました……」
「そんなものまた買ってやるから。もう泣くな。物なんていくらでも取り返しがきく。そんなことより、自分が無事だったことを喜べ。そっちは取り返しがつかないんだぞ」
やっぱり遥さんは優しい。私なんかをまるで大切なもののように扱ってくれる。
「ああ、親子間でも接近禁止命令を申請できればいいのにな」
「……できないんですか?」
「できないんだよ。あれはDV防止法やストーカー防止法に基づくもので、DV防止法では配偶者間の暴力にしか適用にならないし、ストーカー防止法では男女間の恋愛のもつれにしか適用にならない。どちらも親子間は適用外なんだ」
親子の縁というのは、やはりなかなか切ることが難しいらしい。
何やら気が重くなって、私は思わず俯いた。
結局血が繋がっている以上、完全にあの父から逃げ切ることは難しいのかもしれない。
すると遥さんはそんな私の顔を覗き込み、安心させるように笑った。
「心配するな。君には俺という夫がいるだろ? 今や君に一番近しい家族は、あのクソ親父じゃなくて、俺だ」
親子間が一親等なのに対し、夫婦間は当人と同一の権利を持つ。つまりは0親等と言っても良い関係なのだと、遥さんは言った。
結婚なんて紙一枚書くだけで成立する気軽な制度、とか言っていたくせに。
まるで偽装の『妻』を、大切な存在のように言うなんて。
ダブルスタンダードにも程があると、私は笑った。
でも確かに、今、私の一番近しい家族は遥さんだ。そう思うと幸せな気持ちになった。
――ああ、彼が好きだ。どうしようもなく好きだ。
彼にとって私は、保護すべき小さな子供かペットにしか過ぎないのに。
その後、しばらくの間私は怯えていたが、結局父は姿を現さなくなった。
どうやら弁護士に囲まれて生活している私に、手出しするほどの気概はなかったらしい。
思いの外小心者である。強いものには牙を向けられないのだ。弱いものはいくらでも痛めつけられるくせに。
ちなみにあの時なぜ遥さんがすぐに私の居場所がわかったかというと、そういった緊急事態時のために彼が前もって私のスマホの中にGPSアプリを入れていたかららしい。
私に何かあった時に、すぐに駆けつけられるようにと。
『ありがとうございます! おかげで本当に助かりました』
細やかに気が回る人だなぁと、私が遥さんにお礼を言うと、なぜかその会話を聞いていた事務所の皆様が一様になんとも言えない表情をしていた。一体どうしたというのだろう。
バイトに行った際、美奈子さんまでが痛ましげな顔をして『モモちゃん、嫌なら嫌ってちゃんと言わなきゃダメよ』などと言っていた。本当に一体なんだというのだろう。
別に特に困ることもないので、そのGPSアプリは遥さんの指示でそのままにしている。
その後も相変わらず、遥さんとの生活は穏やかだ。
不幸慣れしているからか、思わず怖くなってしまうくらいに毎日が幸せで。
これを失ったら、もう生きていけなくなるんじゃないかと思うくらい、幸せで。
「――モモ」
遥さんが私の名を呼んでくれるだけで、私は胸がいっぱいになってしまう。
「はい、どうしました?」
振り向けば、お菓子の入った紙袋を片手に、笑う遥さんがいる。
どうしよう、好きだ。彼を見つめるだけで、胸がうるさいくらいに高鳴ってしまう。
――――このまま本当の夫婦になりたい、だなんて。
そんな烏滸がましい気持ちが湧き上がってきてしまうくらいに、好きだ。
――バカだなあ、私。
思わず自嘲する。遥さんは前に、十代は射程範囲外だと言っていた。そりゃそうだ。
大人な彼からすれば、こんな子供っぽい女、明らかに恋愛対象にならないだろう。
ハムスターは所詮可愛いペットであって、女性ではないのだ。
だからもちろん私とて、この恋が叶うなんて思っていない。身の程はちゃんとわかっている。
「依頼者さんが美味しそうなお菓子をくれたぞ。一緒に食べないか?」
「ありがとうございます。わ! 大きなマドレーヌだー! 美味しそう!」
いそいそと私はお茶を淹れ、遥さんと自分の前に並べた。
法律事務所には、こういった差し入れが結構多い。もちろんありがたくいただいている。
マドレーヌを両手に持ってもぐもぐと食べている私を、何やら遥さんが目を細めて楽しそうに幸せそうに見ている。
最近私はハムスターを意識するあまり、行動まで似てきてしまった気がする。
少しでも愛されるために、可愛いと思ってもらうために。
私は、あざとく生きるのだ。
「いやあ、モモは可愛いな」
私の計算通り、遥さんは私を見てほっこりしている。
「やっぱり遥さん、私のことペットかなにかだと思ってません?」
「……いや、思ってないぞ?」
「ちょっと! 今妙な間が開きましたけど……!?」
そう、きっと私は彼にとって、ハムスターと同じくペットのようなもの。
それでも私は、彼の側にいられるだけで、十分幸せなのだ。
ペットでもいい。可愛がってもらえるのなら、それで良い。
毎日自分自身にそう言い聞かせながら、己の恋心が次第に拗れ、捻じ曲がっていくのを、私は見て見ないふりをしていた。