零落した元お嬢様である花純は、困窮する家族のため、かつての執事であり、今は会社社長の都築李織に援助を頼む。彼は花純の初恋の相手だった。「可愛いな、お嬢様は。俺でこんなに、感じてくれるなんて」援助と引き換えに一ヶ月間、李織の家政婦兼、偽装恋人をすることになった花純。冷ややかな態度とは裏腹に、李織は花純に優しく触れて……!?
「――俺も、健全な男ですから」
李織は、妖しげな色香をまとって笑う。顔には、扇情的な男の艶が滲んでいた。
免疫がない花純の思考はパニックになり、つい昔のように可愛げ無い態度をとってしまう。
「こ、こんな魅力ない女にそんなことを言うなんて、李織も饒舌になったこと。でも仮にも冷帝と言われる身の上であるのなら、あまり気軽にそんなことを言わない方が……」
「……あなたにだけですよ、こんなこと言うの。他の女にはまるで興味がないので」
「だ、だからそういうことは……っ」
「男です、俺は。昔からずっと、お嬢様に対して一途な」
昔の面影をだぶらせながらも、深緑色の瞳には、昔になかったはずの熱が滾っている。
押し寄せてくる熱感が苦しくて、花純は喘ぐような息を繰り返した。
心臓が壊れるほど、けたたましく脈打っている。
(告白されている気分なんだけれど、これは絶対にわたしの願望がいいように解釈しているわね。昔の忠義心のことを言っているのかしら。それとも恋情と勘違いさせて、わたしを笑うつもりとか? ああ、よくわからない。ただなにか、焦る!)
李織の熱が伝染したみたいに、火照った顔で返答に窮していると、李織が苦笑する。
「――なんて、少し図に乗って、困らせてみました。あなたがあまりに可愛いことをして、俺を……拒まないでいてくれたから」
花純は抱きしめ合ったままでいることに気づき、慌てて距離を置く。
「やはりあなたとナデシコは似ている。今でこそずっと触らせてくれていますが」
李織は切なげに瞳を揺らした。
「本題に戻りましょう。俺は……昔のことを理由に、あなたに恥をかかせたり泣かせたりしたくて、パーティーに連れて行くわけではありません。そこまで狭量で姑息ではありません。むしろ、そんな風に解釈されているとは驚きですが」
くすりと笑う李織には、意地悪げな邪気はない。
「だったら、なぜ? もっと魅力的な女性を連れていく方が、李織のイメージもよくなるのに」
「言ったでしょう。あなた以外に、恋人役を頼みたいとも思わないからだと。ほかの女を連れるくらいなら、誰も同伴せずひとりで行きます」
「……っ」
「あるいはナデシコに、ドレスを着せて連れていくという手もありますね。二足歩行をさせて」
ふさふさの尻尾を揺らしながら、李織と腕を組んで誇らしげに歩く、おめかしした化け猫令嬢。
想像してしまった花純は、思わず声をたてて笑ってしまった。
すると李織は、ようやく笑い顔を見せた花純にほっとしたような表情を見せ、柔らかな眼差しのままで続けた。
「世辞抜きに、俺は今のあなたのままで十分だ。しかしあなたが泣くほど今の体形を気にするのなら、あなたが少しでも納得できるまで、俺がなんとかします。だからご安心を」
「なんとかするって……なんとかできる体形じゃないのよ。お世辞だけで綺麗になれたら、苦労しないわ。たとえエステに行っても、短時間で大した効果は……」
「ええ。俺もエステなど考えていません。それに触らせたくないですしね、あなたを」
「な……っ」
李織の言葉が冗談なのか本気なのか、その表情からは窺えず、花純は戸惑う。
「あなたが俺に触れても大丈夫なら、全面的に俺に任せてください。パーティーまでの期間、俺があなたの女らしさを引き出します」
李織は右手の手袋を引っ張りながらはめ直す。まるで執刀医のようだ。
「や、ちょ……なに? ねぇ、そのジェスチャーはなにを意味しているの?」
及び腰になって逃げようとするが、狭い更衣室には逃げ場がない。
「色々ですよ。えぇ……色々」
意味深に笑う李織は、なにか怖い。
「け、結構よ。別に主人は家政婦にそんな気を回さなくても……」
「おや? 俺が主人という認識はあったんですね。ではその主人に、さっきからずいぶん馴れ馴れしい言葉遣いですね、家政婦さん?」
「え……あ!」
「あなたに選ばせてあげましょう。主人にため口をきいたペナルティで家政婦をクビになるか、それとも……主人の実験台になるか」
「じ、実験台!?」
「さあ、どちらがいいですか?」
(……鬼!)
八年後の李織は、意地悪だった――。
オレンジ色の淡光が薄暗い部屋を照らしている。
壁にはゆっくりと影が揺れ、ベッドが軋む。
「や……ぁ、だ、め……そこ……ばかり、駄目っ」
ベッドの上には、枕を抱きしめた花純が俯せになって横たわっていた。
買ったばかりのTシャツは捲れ、ハーフパンツから伸びる足が悩ましく揺れている。
喘ぎ声とともに、力の入ったつま先はシーツの渦を作る。
「ああ、ん……っ、いお、り……様、そこ……駄目、あ……あぁん!」
花純の腰の上には、李織が馬乗りになっていた。
いつもは涼やかな端正な顔が紅潮している。憂いを帯びた深緑色の瞳を潤ませ、わずかに息を乱しながら、李織は静かな声を発した。
「――ナデシコ」
それに呼応し、ベッドの下にいた巨猫がむくりと起き上がる。
そしてベッドの縁に両手をかけると、長い尻尾でぱしぱしと花純の顔を叩いた。
「ちょ、ナデシコさん!?」
「にゃ!」
「お返事じゃなくて、そのぱしぱしは痛……いぃぃ! 李織様、そこはクルんです。李織様のゴッドハンドで、足先までびーんと……ううっ、尻尾が口に、ふあ、ふうぅぅぅぅ!」
李織は両手で容赦なく、花純の凝り固まった肩や背中を揉みほぐし、巨猫は李織の集中力を乱す花純の声を封じる。傍迷惑で騒がしい声は、今はふがふがとしか聞こえない。
李織は昔、花純からマッサージを頼まれたことがある。花純に喜ばれたくて、その後専門書を読んで、彼女好みの美容効果が出るマッサージを研究していたのだが、花純に触られるのを拒まれるようになり、その成果を発揮させることはできなかった。
ようやく腕の見せ所とばかり、帰りに買ってきたマッサージオイルを花純の肌に擦り込み、マッサージを始めたが、花純の体は岩のように堅い。契約破棄をちらつかせて強制的に施術を受けさせたため、花純の抵抗感や緊張感もあったのだろうが、それ以上に彼女は苦労してきたのだ。
罪悪感を覚えながら馬乗りになって解していくと、濡れた手袋は彼女の肌の熱と感触を伝え、素手で直接触れたい衝動をかきたてる。その上、彼女の扇情的なあの声だ。わざと煽って自分を試しているのかとも思ったが、彼女は至って真面目に気持ちよさを訴えているらしい。
自分の理性の強さは自信があるし、やましさなく健全なマッサージを始めたはずなのに、悦ぶ彼女に欲情してしまうとは。それを悟られまいと努力はしていたが、強靱な理性にも限界がある。
万が一、おかしな気分になった時に備えて、巨猫を連れてきてよかったと心から思う。
番犬ならぬこの番猫がいなかったら、どうなっていたかわからない。
腰に込み上がる熱をなんとかやり過ごした李織が合図をすると、巨猫はまたベッドの下で丸まった。わずかに細められた金色の目が、主の不埒さを詰っているようで、居心地が悪い。
何ごともなかったような平静さを装って、李織はくったりとした花純をベッドの縁に座らせた。
花純は汗ばんだ髪を頬や首筋に貼りつかせたまま、うっとりとした顔で素直に従う。
垣間見える女の表情は、鎮めたはずの劣情を否応なく刺激し、これならば、触れるなと昔のように冷たく拒まれた方がよかったかもしれないと、李織は密かに苦笑する。
「そんなに気持ちよかったんですか?」
李織はベッドの下で片膝をつき、枕を胸に抱えていまだ蕩け中の花純を見上げる。
「ん……気持ち、よかった。体の火照りが止まらないの」
素直なお嬢様はたちが悪すぎる。無自覚で女の色香を漂わせながら際どい台詞を口にして、李織に対する拒否感を微塵にも見せない。少しは、彼に対する嫌悪感が薄まっているのだろうか。
だから更衣室でもあんなに泣き、触れることを許してくれたのだろうか。
期待など無縁だと思ってきただけに、この状況をどう捉えていいのか李織は惑う。
しかし今それを指摘して尋ねれば、正気に戻ってまた拒まれ泣かれてしまうかもしれない。それくらいなら、曖昧なままにしたくなる。
「それはよかったです。あなたの体はかなりの疲労で凝り固まっているから、こうしてマッサージをしていれば、きっと血流がよくなり、肌つやも変わってくる。特にリンパは……」
昔の知識を頼りにそれっぽい蘊蓄を述べているのは、花純の色香に惑わされないため。
「毎夜マッサージをしていれば、一週間後のあなたは違ってくるはずだ」
そして……毎日触れる口実を作るため。
こんなに可愛い花純を見ることができるのならば、たとえ自制心と闘う羽目になってもいい。
マッサージを通して、溢れそうな愛を……彼女に伝えてみたい。
それくらいの下心を持つことは、許してほしい。
「さあ、次は足。まずは右足を。マッサージをすれば浮腫はとれるはずです」
従者のように花純の足元に傅いたまま、李織はそっと花純の足を手にする。
足に触れた瞬間、びくりとした震えが伝わってきて、花純がか細い声で言う。
「あ、あの……もう結構ですから。あなたは主人なんだから、そんなことまでしなくても……」
「俺は主人としてあなたにマッサージをしているわけではありません」
「え?」
「少しでも……労りたい。頑張ってきたあなたを」
途端、花純が泣き出しそうな顔をして、眉間に皺を刻んだ。泣くのを堪えているようだ。
「いや……ですか? 令嬢だったあなたが頑張らざるをえなくなったのは……俺のせいですからね」
独りごちると、花純がふるふると首を横に振る。
「わたしのせいよ。あなたのせいなんかじゃない」
「どうして? 俺は明確に……あなたたちを裏切った」
「そうさせてしまったのは、わたしのせいだから。わたしが……傲慢だったから。あなたに、心底嫌がられたから。だから……」
素直になっている花純から漏れる言葉は、昨夜の再現のようだ。
金のために我慢して、嫌いな男に頭を下げて謝罪している花純の姿がそこにある。
李織の心臓が、とくんと鳴る。
我慢しているのではなく……本当のことなのだろうか。
花純との間にあった分厚い氷の壁は、溶かすことができるのだろうか。
「……嫌いじゃないと言ったら?」
李織の声は、搾り出したように掠れていた。
「そんなはずはない。だってあなたは……」
「俺は嫌いな相手に、こんなことはしません」
李織は花純の右足を軽く持ち上げると、唇を押しつけた。
「……っ!?」
真っ赤な顔をしている花純が目に入る。
一挙一動、花純の反応を見逃したくなくて、李織は花純を見つめたまま、ゆっくりと舌を這わせていく。
「李織……様、やめて、汚……」
「あなたに汚いところなどない。いつだってあなたは……綺麗だ。それに言ったでしょう? あなたが汚いと口にするたび、口づけると」
「……っ」
ねっとりと舐めると、花純は口を己の手の甲で塞ぎ、切なげな顔でぶるりと体を震わせた。
李織は、花純が見せた反応にぞくっとする。彼女は自分を拒まず、女の艶を見せている――それは、長年主従を越えたかった李織を大いに歓喜させて昂らせた。
ああ、たまらない。足だけでこうなるのなら、他の部分に口づけると、どれだけ可愛い顔をみせてくれるのだろう。
抑え込んでいた感情が溢れ出してくる。それは愛情であり、劣情だ。
唇から伝わってほしい。いまだ色褪せない真剣な想いを。
ずっと、好きだった。ずっと、欲しかった。……手が届かない主を。
そして再会した今、昔には見る事のなかった様々な表情を見せてくる彼女に、新たに惹かれていた。泣いて笑って拗ねて、時に猫のように爪をたてて怒りながら、少しずつ警戒をとく努力をしてくれている彼女が、愛おしくてたまらないのだ。
花純さえ許してくれるのなら、もう彼女を手放したくはない。
頭を壁に打ちつけ、全身を掻きむしって慟哭した、あの別れの雪の日を塗り替えたい。
……店で着替え中の彼女を待っていた時、ウェディングドレスが目に入った。
ドレスに刺繍された雪の結晶。
雪は、自分の罪の象徴でもあり、彼女を蝕むものでもある。
かつて雪が降るクリスマスに、結婚式をせがんできた花純を思い出した。
そんな思い出、彼女はとうに忘れているだろうが、もし彼女がこの純白のドレスを着たら、どれだけ美しいだろうと思いを馳せた。その隣に立つことができたら、どれだけ幸せだろうと。
あの頃、従者は彼女の相手になりえないと諦めていたが、今は違う。
彼女を堂々と娶れる地位も財産もある。
また望んでくれないだろうか。
一生をかけて彼女だけに愛を捧げると誓うから、今ここで彼女に触れている自分を男だと、意識してほしい――。
熱く柔らかな李織の唇と舌が足を這うたびに、花純はぞくぞくとした震えがとまらない。
悪寒にも似たそれは、火照った身体をさらに熱くさせ、下半身にもどかしい感覚を強めていく。
――あなたに汚いところなどない。いつだってあなたは……綺麗だ。
その言葉がどんなに嬉しいものか、きっと李織にはわからない。
ほかのだれより李織にそう言われただけで、世界で一番綺麗な女になった気分になる。
「は、あ……っ」
滑り落ちた李織の唇が花純の足先を甘く食み、ちゅぱりと吸われる。
ざわっと肌に走る刺激に、花純は声を裏返らせて弱々しく訴えた。
「な……駄目、李織……様。そんなことは……」
それは従者の服従であり、人間にとって一番屈辱の姿勢だ。
李織の肩を押して離そうとするが、李織は動じない。それどころか、艶めかしい舌をわざと花純に見せつけるようにして、指と指の間までゆっくりと丁寧に拭い始めた。
李織の舌や唇が侵蝕してくる。李織のことだけしか考えられないように、中から作り変えられているような錯覚に陥ってしまう。
「ふ……ぅん、あ……」
こんなことをさせながら、なぜ自分はこんなに甘ったるい悦びの声を出してしまうのだろう。
こんなはしたない女など見下せばいいのに、李織は見惚れてしまうほど色っぽい表情を向けたまま、行為をやめようとはしなかった。
どうして、そんなに幸せそうな顔で、足に口づけるのだろう。
どうして、そこまでしてみせるのだろう。
「んんっ」
体のざわめきが、性的な感覚であるということは、未経験の花純でもわかった。
(わたし……感じているんだ。李織に舐められて……)